NOTEノート

2026.05.26

sees magazine vol.2「藝えるとは」全文公開

6月1日に『sees magazine vol.2』が発売されます。
創刊号のテーマ「Rescale ちょうどいい規模、新しいものさし」を経て、vol.2では「藝える」という言葉を手がかりに、いま私たちに必要な姿勢とは何なのかを考えました。

「藝える」というテーマは、どのような思考をたどって出てきたのか。

今回は『sees magazine vol.2』の中から、編集長の奥田が今号のテーマについて書いた「藝えるとは」を全文公開します。


「藝(う)えるとは」 – 今、私たちは何を植え、何を育むのか

2024年10月、冷たい雨が降る中で僕は、医師の稲葉俊郎さんと森を歩いていた。森の中に入れば、木々が少しは雨を防いでくれるのではないか、と期待した。小雨の時はその効果は大きいけれど、一定量を超えた雨は樹冠を通り抜け、しっかりと森の中に降り注いでいた。それまで晴れが続いていただけに、「稲葉先生にも伊那谷の南アルプスへと抜ける景色を見てもらいたかったなぁ」と自然の思い通りにならなさを改めて感じていた。

この日、僕は『sees magazine』創刊号の取材のために伊那を訪れてくれた稲葉先生を、工房や森へと案内していた。森の案内を終えて、室内で少し落ち着いてから、稲葉先生にお話しを聞く。その中でとても印象に残っている言葉があった。

「身体性という言葉がいろんな場面で使われるようになってきたと思うのですが、ともすれば便利ワードになってしまいそうです。稲葉先生は身体性をどのように捉えていますか?」と尋ねた。その質問に対して稲葉先生は迷いなく「身体性とは、個別性です」と教えてくれた 。

個々人がそれぞれに別の身体を持っているということを認識すること。身体とは、単なるタンパク質の塊でも、デバイスでもない。一人ひとり、形も、リズムも、痛みも、喜びも違う、替えのきかない「個別なもの」なのである 。それは健康のあり方も幸福のあり方も、みなそれぞれに違うということを考え直すことでもある。当たり前すぎるそのことが、意外と見過ごされていることに気が付く。

「100万人いたら100万通りの身体があり、100万通りの個別性と多様性があります。しかし、頭主体で考えると身体の反応を無視して頭で勝手に合理化してしまう。『これは気のせいだ』と判断することもできてしまいます。一方で身体の論理は『心地よいか、心地よくないか』、『したいか、したくないか』とシンプルです。身体は自分に嘘をつかないので身体の声を尊重してください。ただ、現実世界だと頭の理屈ではいろいろな事情があるために、頭と身体の間の葛藤で悩んでしまうわけです。身体は休むことを求めているが、休むわけにはいかない、と。頭と身体、異なる世界の溝をどう埋めていくかが重要です。」(稲葉さん)

僕たちは、いつのまにか他人が決めた「正解」や「平均値」というモノサシに自分を無理やり当てはめ、身体が上げる静かな悲鳴を「気のせいだ」と頭で合理化してしまっている。

この「身体性とは個別性」という言葉が僕の中にずっと大切に残っている。

社会から失われた身体性

創刊号では、「Rescale」というテーマのもと、ちょうどいい規模という地域資源との関係性や仕組みについて考えてきた。そしてそのためには新しいモノサシが必要だった。そして、その新しいモノサシこそが、「頭」から生み出すことから、「身体」で考えるということかもしれない。

自分自身の内側にある個別性を受け入れて、出会い直していくような営みが大切なのではないか。つまり、他人の正解ではなく自分自身の身体が発する「個別の実感」を取り戻さなければ、本当の「ちょうどよさ」は見つからないかもしれないと感じていた。

僕は大学生の頃に世界一周旅行に行った。写真が好きだったこともあって、様々な風景を写真に収めようと写真をひたすらに撮っていた。ファインダー越しで写真を撮ることに夢中になっていた。あるとき、写真をあまり撮らない旅人と一緒に旅をすることがあった。その時に、同じ景色を見ているはずなのに、僕がファインダーを覗いている間に、彼は自分の目でその風景をじっくりと味わっているように思えた。写真を撮るのが好きだったからそれでいいじゃないか、と言われればそうなのだけれど、本当にそうだろうか、と考えてしまうこともある。その写真をSNSにアップしていいねをもらうことが目的になっているのではないだろうか。
Apple Watchに「深呼吸をしましょう」と言われて、自分の息が浅くなっていることに気がつく。それは便利であると同時に、自分の生命のハンドルをシステムに明け渡しているような、奇妙な喪失感を伴う。「いいね」という他者からの承認がなければ、自分の感動さえも育めなくなっているのではないか、と振り返りたくなる。 

解剖学者の養老孟司先生は、現代社会を「脳化社会(人間の意識で作ったルールやシステムが、現実の身体や自然を支配してしまっている社会)」と表現している。 脳にとっては、自分の体ですら思い通りにならない自然物だと言う。老い、病、あるいは単なる体調不良などは、効率を求める脳(社会)にとって邪魔なノイズになってしまう。脳化社会が進むことは、身体の軽視や感覚の麻痺を引き起こし、現代人が想定外の事態に対する耐性を失う原因にもなっていると養老先生は忠告する。

脳が支配する現代社会において、ノイズとして排除されてしまう「身体」。しかし、アートとは本来、そのノイズの中にこそ宿るもの。

理屈や効率、市場調査からは決して生まれてこない、個人の切実な衝動。雨に濡れた土の匂いに心が動く瞬間や、言葉にならない怒り、あるいは身体の底から溢れてくる喜び。それらの「個別すぎる実感」を、誰に頼まれたわけでもなく形にしてしまう行為。それが、システムに絡め取られそうな僕たちの身体性を、再び野生へと解き放ってくれるはずだ。

デザイナーのネリ・オックスマンが提唱している「Krebs Cycle of Creativity(創造のサイクル)」でも、アートの役割は「現在の行動を批評し、新たな認識を世界に生み出すこと」にあると表現している。 アートのないサイクルでは、サイエンスが情報を知識に変え、エンジニアリングが知識を有用性に変え、デザインが有用性を行動に変え、その次にまたサイエンスがやってくる。そうなると、現状の延長線上にある「改善」的なサイクルばかりが回り始める。 そうではなく、社会の行動や認知に関して「本当にこれでいいんだっけ?」、「自分はどうしたいのだろう?」と問い直す営みこそがアートの役割であり、身体性、個別性の必要性なのだと感じる。

「Neri Oxman’s Krebs Cycle of Creativity 2017」をもとに筆者が改変

「藝(う)える」という問い

Rescaleの次に問い直すのは身体的な個別性。そこから生まれるアートに取り組む人たちへの取材を通して、個別のモノサシをテーマにするのはどうか、と考えていた。

しかし、芸術に詳しいわけでもない僕たちが芸術をテーマに雑誌をつくるというのは、少し違和感があった。だから僕たちだからこそ考えられるテーマでの身体やアートはないだろうか、と考え始めた。

芸術の「芸」という字には、「藝」と「芸」がある。「藝」はもともと「藝(う)える」と読み、人が苗を植えている形からきているという。植えて育てるという身体的な行為が、やがて技術や修練という意味に変化していった。 一方で、新字体の「芸(うん)」という字は、もともと「芸(くさ)ぎる」と読み、草を刈るという意味がある。 

藝:「ものを種える」 [ うえる, 植える]    の意味。「人間精神において内的に成長してゆく或る価値体験を種えつける技」の意味
芸: 「草を刈り取ること」の意味。農業用語、 音読みは「うん」、訓読みは「くさぎる」

参考: 今道友信 『美について』講談社現代新書、1973年

「植え育てる」に対して「刈り取る」。この意味の対比をみた時に、ぽんと膝を打ちたくなる。現代社会は、いかに効率よく「刈り取る」かというシステムを磨き上げた。成果を、数字を、利益を、最短距離で刈り取る。けれど、僕たちが創刊号から大切にしてきたのは、その手前にある「土を耕し、種を植える」という、時間のかかる、個別で、ままならない身体的なプロセスそのものではなかったか。

森で木を育て、土に触れ、何かが育つのを待つ。この伊那谷で僕たちが日常的に行っていることも、実は「藝」の根源にある姿だった。そう考えると、アートが少し身近に思えてくる。

それは、完成された作品を愛でるのではなく、自分自身が、固有の種を『藝(う)える』という生き方の表明だ。

一人の当事者として、自分の個別性をいかに植え、育てていくか。そのプロセスを今号では「藝術」として捉え直したい。それと同時に、宮沢賢治の書いた『農民芸術概論綱要』が頭に浮かぶ。

農民の在り方そのものを芸術の中に位置付けようとした宮沢賢治もまた、抑圧された生き方を個人の中に取り戻していくような未来を考えていたのかもしれない。AI時代と言われる中で、効率化や速さといった価値観から降りるのはとても難しい。それでも、時間、規模、身体。それらをもう一度自分の中でないまぜにしながら、失われつつある身体感覚と、自分の個別性を問い直してみたい。

ということで、本誌のテーマは、「藝(う)える —— 今、私たちは何を植え、何を育むのか」です。

雨がさーさーと降る森の中。ままならない自然の中を稲葉先生と歩く。きのこなどの菌類はどこか嬉しそうに見えた。色づきの準備を始めたコナラやクヌギ、濃い緑のままのヒノキやアカマツはこの雨にどんな反応をしているのだろう。雨の森を歩く稲葉先生もまた、カラフルな傘を差しながら楽しそうに歩いている。雨の森をどう感じるのか。それもまた人それぞれ。雨も太陽も、森の芽吹きをつくり、植物の成長を助ける。誰かが「藝えた」ものが芽吹きを迎えるのはどんな時なのだろうか。「藝える」をヒントに、旅の準備を始める。

sees magazine 編集長 
奥田 悠史


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<<期間は5月27日(水)23:59受付完了分まで>>

期間中にご予約いただいた方には、イラストレーター・カワグチタクヤさんによる表紙イラストのステッカーを特典としてお届けします。

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