NOTEノート

2024.07.06

「何か」が自然に生まれる場づくりを探る | 森 一貴さん 後編

鯖江市をフィールドに、“思いもよらない出来事”が生まれる環境・関係を耕す実践に取り組まれている森一貴さんの、インタビュー後編です。

前編では、「参加型デザイナー」としてさまざまな地域プロジェクトに関わる森さんから、何かが自然と発露するような場はどのようにつくられるのか、ご自身の体験をもとにいくつかのヒントをいただきました。
「つくる人」と「使う人」を明確に分けるのではなく、程よくゆだねることで、思いもよらない景色が立ち上がることがある。そんなことが見えてきました。

▷前編をまだ読まれてない方はこちらからご覧ください。

後編では、「公共」についてお聞きしていきます。
inadani sees は「農と森のインキュベーション」であると同時に、「伊那市の施設」という側面もあります。特定のテーマや目的を持ちながら、公共性をどのように捉えたらいいのか。政策・公共領域におけるサービスデザインにも取り組む森さんは、「公共」をどのように見ているのでしょうか。

なんとなく使っている「公共」という言葉を見つめ直す

ーー inadani sees(以下、sees)は農と森のインキュベーション施設なので、地域でプロジェクトや事業をしたい人たちに向けて運営しています。その中で、市の施設ということで公民館的な用途でお問い合わせをいただくこともあり、sees としてどのように「公共」というものを捉えたらいいのか悩むこともあるんです。森さんは行政とのプロジェクトに携わることも多いと思いますが、「公共」をどのように考えていますか?

 僕の専門領域である「公共=パブリックス(publics)」は、よく行政が使うような「公共=みんなに平等」という言葉とは、ちょっと意味が違うんです。
あるものの周りに、さまざまな人が、それぞれの関心事や懸念を持ち寄る。そうやって生まれる集合体のようなものを「パブリックス」と言っています。

これは、アメリカ合衆国の哲学者であるジョン・デューイの言う意味での「公共」なのですが、「行政のもの」や「みんなに影響があること」が公共ということではないんですよね。
大きなものから小さなものまで、みんながそれぞれの関心を持ち寄って生まれているものなら全て公共だ、という認識を持っています。

そういう意味では、公共は「政治」と言い換えてもいいのかもしれませんね。政治といっても投票という意味ではなくて、ある人たちが困りごとを持ち寄ったときに、そこに政治あるいは公共が生まれてくるというような。

ーー 私たちは普段、公共や政治について議論する機会とか、考えるタイミングもあまりないですよね。そのせいか、公共や政治について語る言葉をあまり持ってないなと感じました。なんとなく「公共」という言葉を使っているけれど、けっこう無自覚に、それぞれが曖昧な認識のまま進んでいるような……。

 公共と聞いたときに、なんとなく固くて難しそうな印象もありますよね。「行政=公共」という価値観も、いつの間にかつくられてしまった捉え方な気がしています。でも公共って、どちらかというと「僕らのもの」なんだろうなと。

フェミニズムの言葉に、「個人的なことは政治的なこと(1)」という言葉があります。

(1)英語では「The personal is political」。1960年代以降のアメリカにおける学生運動および第2波フェミニズム運動におけるスローガン。

ちょっとしたモヤモヤや、やってみたいことも含めて、誰かが抱えているものは潜在的には公共的であり、政治的なことであるという考え方です。
もう少しそんなことを認識できたら、みんながそれぞれに、それぞれの形でもっと公共に関わっていけると思うし、プロジェクトをつくる僕らの考え方も変わってくる気がします。
それぞれ異なる立場の人たちが、それぞれに懸念を抱いたりする中で、調整作業をしていくような。いろいろな点をつないでみたり、調整してみたり。そんなことも公共の中には含まれてくるんじゃないかなと思っています。

ーー そうやって公共を捉えてみると、ぐっと引き寄せられる感じがしますね。

すべての人が乗り込める1つの舟より、多様な人が乗り込めるたくさんの舟を。

ーー 何かを発信したときには、それに共感する人や、価値観が近い人たちが集まりやすいと思うんです。ある場に多様な人が集まることはいい面もあると思いますが、その場の温度感と合っていない人が来た場合には、他の人が萎縮してしまうこともあるんじゃないかなって。そのあたりのバランス感についてはどう感じていますか?

 そうなんですよね。僕も「多様性っていいよね」と言っている一方で、やっぱりそこには一定のコミュニケーションというか、隠されたスクリーニングが発生しているんだろうなと思っています。
ルールではなく、制度設計や伝え方によって自然と温度感や空気感の合う人が来る。そうなると理想的だなとは思っています。むしろ、言葉であれこれルールが書いてあると、僕は嫌だなって思っちゃう。

僕が鯖江市に移住するきっかけになった「ゆるい移住」というプロジェクトがあるんですが、コミュニケーションの設計が絶妙だったんですよね。
ゆるい移住では、鯖江市に半年間家賃無料で住めるんですけど、それ以外の条件がないんです。就農も起業もしなくていいし、定住もしなくていい。そんなプロジェクトなので、最初は市役所の中からも「それだとどんな人が来るかわからないのでは?」と心配する声が出たみたいです。
でも、実際はそんなことないわけですよ。鯖江市に行っても関係性があるわけではないし、全く知らない土地の、家具もない3LDKの部屋に応募してきた人全員で住むことになる。その状況を「おもしろい」と思う人しか来ないわけで、結果として鯖江市が「来てほしい」と描いていた人たちが集まってきたんですね。

ーー そこの制度設計や伝え方をないがしろにしちゃうと難しいだろうなとは感じますね。それと同時に、公共ってそれがやりにくい建て付けだなとも思うんです。公共について研究するだけでなく、実践もされている中で、森さんが難しさを感じるのはどんなところですか?

 僕は最近「さばえまつり」という新しいプロジェクトをはじめたんですけど、そのお祭りで目指していたのはまさに、「誰もが乗り込める大きな舟」です。

「空間を絞ればみんなが乗れるんじゃないか?」と考えて鯖江に地域を絞っているんですが、やっぱり全員が乗り込むというのはなかなか難しいですね。
「お祭りを立ち上げよう!」と言って集まってくる人は、自分で何かやっている人とか関心の高い人たちで、会社勤めの方たちにはそもそも届いていなかったり。
それと僕がいつも思っているのは、ヤンキーに僕のメッセージは全く届かないなってことですね。

ーー その感じめちゃくちゃわかります……!

 僕の場合はシェアハウスを運営しているので、たまに出会うヤンキーはいるんですけどね。なかなか彼らにメッセージが届かない難しさは感じています。

ーー 伊那市に約65,000人いる中で、一体どれくらいの人にメッセージが届いているんだろうと私たちも思うことがあります。sees でビジネスの文脈だけでなく、「自分たちが生きたい伊那谷とは?」のようなある種の人文学的に問いを立てたような企画を打ち出すときに、そのメッセージってなかなか届かない。都市だから届くとは思いませんし、そこは母数と割合の話だとも感じますけれど。

 公共だからといって、「全員をいっぺんに救う」ことはやっぱり不可能だなと思うんですよ。僕たちはそれぞれに有限だし、全員が自由な想いを発露させることができる“一つの空間”は存在できないんだろうなって。

さばえまつりは月に一度、土曜日に集まって企画を進める「寄り合い」という活動をしているんですけど、土曜日の日中だと来られない人もいます。そう考えたときに、全ての人に対して同じ枠組みの中で手を伸ばしていくのはちょっと傲慢だなとも思うし、でもなるべく多様性を広げていきたいし。僕もそのあたりはもやもやしながら進めているところです。

ーー sees の場合、この地域に起業したい人がそもそもそんなに多くない中で、ただ単に人が来ることを目指すと施設としての目的から外れてしまうことにもなりかねない。公共性で悩ましいのは、結局そういうところなのでしょうね。

 そうですよね。ただそんな中、「土曜日は行けないけど関わりたいから」と、最近では月一の寄合に加えて平日に開催される集いが生まれているんです。
必ずしもみんなが同じペースで、同じ時間に同じ空間にいなくてもいいんですよね。
いろいろな立場の人が、いろいろな形で乗り合えるような舟になっていけばいいなと思いながらやっています。

ーー 森さんのnoteの中に「最も美しいと思う状況」について書かれていましたが、その状態をつくり出すことに向けて一貫されているんだなと感じました。

“人々が自然な状態でいるとき、なにかが自然に発露し、重なりあい、変化しあい、全く想像もしていなかった景色が生まれること” / 森さんのnoteより

 僕も毎回、こういう話をするとめちゃくちゃ申し訳ない気持ちになるんです。どうしても曖昧な表現になってしまうし、明確に言うことが逆に間違いになってしまうこともあるじゃないですか。言葉にしている人も少ない中で、それでも言語化を諦めないというか。そこにあるぐしゃぐしゃとした絡み合いのようなものを、諦めずに捉え続けていきたいなという感覚があるんですよね。

それぞれの人が自然体でいて、かつ影響し合いながら少しずつ進んでいけるような。そういう舟や舞台のようなものがたくさんある社会をつくることが大事なんじゃないかな。
まあでも、公共って何なんでしょうね。

ーー 何なんでしょうね(笑)。でも今回のお話を通して、これまで漠然と抱いていた「公共」とは違った角度からの視点をいただきました。そして、物事を直線的に考えるだけではなく、さまざまな要素がぐるぐると巡る中で何かが生まれていくほうが自然なんじゃないかと。そういう捉え方をさせてもらってもいいのかなと、少し勇気をいただいた気持ちになっています。

 inadani seesもやまとわも、いわば生態系的なあり方ですよね。わからないまま前に進んだり、複雑なものをそのまま受け止めたり。そんなことをしながら公共というか、いろいろなことができる場をつくろうとしている感じ。そういうことなんじゃないかなって僕は思っています。

ーー 森さんの話を聞きながらそう思いました。わからなさを突き進んでいる感じ(笑)。「森が豊かになること」という、みんなにとって影響があることをなぜか引き受けようとしている。そういうスタンスなのかもしれません。inadani seesで言うなら、「つづいていくまち」をつくるのはみなさんだけど、その未来に向かって声を上げたり、場をつくったりする。そういう役割をinadani seesの「公共」だと捉えてみることから始めようと思います。

森さんへの取材を通して、「公共」を捉え直したり、考えたりすることそのものが自分たちの手の中に公共や政治を取り戻していくことなのだと感じています。それは大袈裟な話ではなく、自分たちの暮らしを誰かに付託するのではなく、自分たちのものとして振る舞う姿なのだと思います。inadani seesにおける「公共」を考え続けていくことが私たちの誠実さですね。ありがとうございました!


聞き手・文・編集:SEES NOTE 編集部
写真:森さん提供